Re: 気迫 ( No.1 ) |
- 日時: 2019/12/17 17:25:05
- 名前: 私の場合
- 先生と2人きりで、道場で立ち合いをお願いする稽古を週1回程度やらせていただいております。その際は呼吸を静かに、ほぼ止めてる状態でやってます。自分の呼吸の音がうるさいぐらいです。剣道形をやるときも呼吸は止めてます。先生には3分ぐらい呼吸を止めんかっ!!と言われます。このように静かに立ち合いをやると、色々見えてくると思います。
しかし、普段の稽古では大人数ですし、子供もいますので気合を発声してやってます。子供や学生にはそれも必要と思います。その道を通って、若しくは通りながら静かな剣道とでも申しましょうか。そういった稽古もできればいいと思います。本当に真剣に相手と対峙して1時間でも2時間でも心の読み合いをして、隙ありで打突すると声も出ないと思います。 心静かにが本来の姿でしょうね。
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Re: 気迫 ( No.2 ) |
- 日時: 2019/12/18 09:05:25
- 名前: せいちゅうせん
- 私の場合様
早々のご意見有り難うございます。
>自分の呼吸の音がうるさいぐらいです。 やはり、そう感じている方もおられるんですね。自分ばかりじゃないと、ちょっと安心しました。
かくいう私も、お相手が声を出せば、小さく返事するように声を「んん」と返して心の交流をはかったり、少年たちには合わせて声を出すんですけどね。
>3分呼吸を止める こういう助言は、おそらく、本当に止めるんではなく密息のことだと私は考えてます。 私は、呼吸を絶対に止めない感覚でおります。
>隙ありで打突すると声も出ないと思います。
そうですね。五輪書の「三つの声」にも、刀を振ると同時に発する声はないと書いてます。
実は、面白いことに、コテ、メン、ドウ、ツキの打突部位を呼称しないと一本にならないとは試合規則・細則、審判規則・細則にさえ一言も書いてないのです。
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Re: 気迫 ( No.3 ) |
- 日時: 2019/12/19 02:56:51
- 名前: だみ声<
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- せいちゅうせん さん
興味ある話題に食いつきました。 僕は若い人への指導において、気迫とは大声であり、 強さ だと説明しております。 ただし達人と言われる人の声は決して大きくない、とも説 明します。 そして剣道においては「無声、無刀」が究極の極意ではないかと思っています。
物事に対して、それを成功させるべく必死に取り組む姿はどこから眺めても気迫のオーラ を発揮していると思います。 一例ですが「青の洞門」を掘り抜いた禅海和尚等です。そ の姿には「説得力」も備わっています。 要はその表現力として、大きな声が初期段階にあって、丹田から発する気迫が大声に乗る 結果、圧力を生じて、「攻め」に通じるのです。 所が修行を重ねると、おっしゃるように声がなくとも動作と姿勢が気迫を生み、大きな攻 めとなって相手を委縮させ、振らずして勝利してしまうという事ではないでしょうか?
>剣道でも仕事でも、健康な体と集中力は大事ですが、それと気迫は関係ない 僕の理論で行くと「剣道でも仕事でも、健康な体と集中力は大事で、意識しなくて もそれ自体が気迫の原動力になり得る」と言うように感じています。 つまるところ「気迫」は必要なのではなく、真剣な取り組みに自然に追随してくるものと 言う感覚ですがいかがでしょう?
ではかく言う僕自身はどのような状態でしょう? これが甚だお粗末の極みでありまして、まだまだ大きな声を発しながら、丹田の有効活用 を模索している状態です。
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Re: 気迫 ( No.4 ) |
- 日時: 2019/12/19 13:18:22
- 名前: せいちゅうせん
- だみ声様
有り難うございます。 長文失礼します。
>修行を重ねると、おっしゃるように声がなくとも動作と姿勢が気迫を生み、大きな攻 めとなって相手を委縮させ、振らずして勝利してしまうという事ではないでしょうか?
この「修行を重ねると」というのが、誤解を生みやすいのではないかと感じてます。 だみ声さんがおっしゃるとおり、昔の達人と言われた方々は、過酷な修練によって達人になったのは確かですが、生死を分かつほどの過酷な修練を積むことで「この道は違う」と気づいたからこそ、そこに達成したと考えているのです。 結果的に死を選んでしまう道、大きな故障など身体に悪影響を与えないといけない道は、道理にかなっていないのではないかという「気づき」があってこそ、今までとは真逆の修練が始まって新境地に立ったのではないかと考えているのです。 中には、気づかないいまま本当に死んでしまった修行者も多くいたことと思うわけです。
また、「気迫を生み、大きな攻めとなって相手を委縮させ」というのも、相手を委縮させることが正しいのでしょうか。 私自身は、構え合った相手から見れば「柳に風」「糠に釘」「暖簾に腕押し」のごとく、どうやっても攻めにならないと感じさせるような剣道はないものかと模索中です。いえ、決して「どうやっても攻めにならないと感じさせたい」という意図的なものではなく、相手が自由に感じた結果、勝手に思い込むという感じでしょうか。 恐懼疑惑は、こちらが意図的に相手に生じさせようとするものではなく、相手が勝手にそう感じる。例えば、夜、墓地の中を歩くと、なにか勝手に不安になるのと同じように(墓地はなにもしていない)。 こちらは、攻めない、攻めようとしない、そこに立ってるだけ。ただ、心も体も自由なまま静かに立ちたいのです。相手から見れば、十分打てそうで、「今だ」と思って打ち込んでもあっさり征される。どうしようもないという感情が生まれてしまうという感じ。
ですから「気迫」は、こちらが発するものではなく、相手が勝手に思い込むものではないかと思うので、自分で「気迫を込めよう」とするのはおかしなことのように思うのです。 心も体も自由なままという状態が、相手が勝手に「気迫」と思うなら、それはそれでお相手の自由という感じです。言葉を変えれば、おっしゃるように「つまるところ「気迫」は必要なのではなく、真剣な取り組みに自然に追随してくるものと言う感覚」ということかもしれません。
>丹田から発する気迫が大声に乗る結果、圧力を生じて、「攻め」に通じるのです。
「丹田に力を込めて」「丹田に気を溜めて」もよく聞かれる言葉ですが、私の感覚では、「立つ」という姿勢が出来上がると、下丹田(膀胱あたり)、中丹田(鳩尾あたり)、上丹田(うなじあたり)に重心バランスの起点があってそこを少し動かすと全身の連動動作が出現するのですが、心は体全体にまんべんなく隅々までいきわたっている感じで、どこか一か所にため込む感覚では、体は居つきやすく、智が自由に身体を動かしてくれない感覚でいます。五輪書の兵法の身なりの「心の持様は、常の心にかはる事なかれ。常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にし、きつくひっぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心を直中に置て、心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那も、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし」に集約されてるとおりだと思います。 かくいう私も、「立つ」という感覚がどういうことなのか先月やっと確信できた初心者なのですが(笑)。剣道再開して11年かかりました。
剣道再開以来、力を抜くというのはどういうことかと生活活動を含めて「立つ」「歩く」を錬ってきたのですが9月に剣道稽古中に足の肉離れを起こすという大失態をしました。これだけ筋力に頼らずに動けるように練ってきたのにです。戦場であれば自分の失態で死んだということです。筋1本痛めただけで、重心移動も歩くことも出来なくなり、なんたることかと、筋肉の重要性も強烈に学びました。骨格の連動ばかり追い求めていましたが、それを補助してくれる筋肉群を大事にケアすることを心掛けるようになって一気に研究が前進した思いです。体が「違うよ」と教えてくれました。体に感謝です。
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Re: 気迫 ( No.5 ) |
- 日時: 2019/12/19 17:24:04
- 名前: 私の場合
- 先生と広い道場で2人きりで立ち会っていると、(あっ一般の稽古が始まる1時間前とか2時間前とか先生のご都合に合わせて、道場に早く行って稽古させてもらってます。)
稽古が終わって、自宅に戻って稽古を回想していると、もし、真剣で立ち会ったらという思いと共に覚悟、信念、一期一会、覆水盆に返らず。など色々な思いにふけります。 剣道で習うことは、打つことでも、技でもないな。と思います。(子供たちにはこんなこと言いませんけど)
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Re: 気迫 ( No.6 ) |
- 日時: 2019/12/19 22:19:48
- 名前: せいちゅうせん
- 私の場合様
道場の他の皆さんも嫉妬しそうな環境ですね。 うらやましいです(^^)
>剣道で習うことは、打つことでも、技でもないな。と思います。(子供たちにはこんなこと言いませんけど)
そうですよねぇ。でも子供達にこそ何か種を植えたいと思ってしまいます。 ただ、連盟推進の指導要領や、試合や級審査対策を求められれば伝える時間もないですね。
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Re: 気迫 ( No.7 ) |
- 日時: 2019/12/20 22:57:08
- 名前: せいちゅうせん
- だみ声様
前述回答の追伸になりますが失礼します。
>「気迫」は必要なのではなく、真剣な取り組みに自然に追随してくるものと 言う感覚ですがいかがでしょう?
一度回答してみたものの、その回答が自分の中でもしっくりせず、考えておりました。 だみ声さんが気迫と表現するものが、私は集中力と表現するものではないかと思い当たりました。
私自身の感覚では、「気迫」と考えると相手にそう思わせないといけない外側に向けたものになりますが、「集中力」ならば自分の内側を充実させることだけに向かう感覚になれます。単なる言葉の違いなのかもしれませんが、私の中では全く逆の別物になるのです。 最近気づいたのですが、立合う際に「お願いします」と念じるより「有難うございます」と念じて三歩進んで抜刀する方が明らかに心も体も自由になれ、無駄な剣先の揺れがピタリと止まる感覚を得ました。
ははは、易々と書き込み過ぎかもしれません(笑)
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Re: 気迫 ( No.8 ) |
- 日時: 2020/02/02 06:00:34
- 名前: だみ声<
>
- せいちゅうせん 様
昨年のコメントにようやく返信を書いていますが、間延びした状態をお許しください。 >だみ声さんが気迫と表現するものが、私は集中力と表現するものではないかと思い当たりました。 そうかもしれないし、違っているかもしれない… と思うしか今の僕には確信がありません。
果たして「気迫」と「集中力」は「=」なのか、同じでなくても「≒」なのか、とまで感 覚がないのが今の僕のレベルなのだと思います。 確かに気迫を込めれば集中せざるを得ないかもしれないですが、その逆もあるのか? あ りそうですが、その時体は自由に立って居れるほど脱力出来ているのか? 何れにしろそれをこっちから発するのでは無く、相手に感じさせる様な「自然さ」には程 遠いと思います。 研鑽を重ねたいと思います。
ところで >稽古中に足の肉離れを起こすという大失態をしました。 もう完治なさっていると思いますが、治療中の「気付き」の記述が尋常でないと感 じました。 いずれにしてもお大事にと申し上げるとともに、これは「上手の手から水」であり、だか らこそ「転んでもただ起きない」という成果を出しておられる点に感服しました。
>立合う際に「お願いします」と念じるより「有難うございます」と念じて三歩進んで抜刀する これはぜひやってみようと思います。 とは言え、只言葉を変えただけでは意味は ないと思います。 じっくり考察したのち、無心で臨んでみようと思います。
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Re: 気迫 ( No.9 ) |
- 日時: 2020/02/02 10:46:31
- 名前: せいちゅうせん
- だみ声様
昨日も今日も朝稽古でした。 昨日はうまくいかず、反省。湧いてきてしまう打ち気を消せませんでした。
今日は、「争うな。諦めよう。相手に添う」を心掛けました。うまくいきました。 穏かで優しい気持ちでいながら、打たれることを全く気にしない心持で立てると、相手の剣先がきつかろうが、 スラ〜っと間に入っていけます。
そうして相手が何かすれば、何か技が出ている。相手が居着けば、スコーンと打っている。 これを不動智というのかなと感じる日々です。
いつも、ご回答ありがとうございます。
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