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剣道の未来
日時: 2010/01/07 01:17:35
名前: 岩石男

はじめまして

子供がスポ小で剣道を始めたのをきっかけに、私も剣道を始めました。
足かけ5年になり、昨年は三段をいただきました。

剣道は、柔道や空手と比較して肉体に対する負荷が低く、女性や老人でも怪我をせずに楽しめる点が美点と思います。
また、手間のかかる袴、防具等の着装や、竹刀の手入れ等を通じて、礼儀作法を身につけやすい環境にある点も、優れていると思います。

一方、たかだか5年程度の経験でこのような言い方をするのは不適切かもしれませんが、剣道の高段者と言われる方々には、技術面、精神面ともに、構造的な問題があるように感じています。
闘争術としての迫力・必死の覚悟を失った武道は、礼儀が形式に留まり、技は廃れ、精神は観念論的に終始することとならざるを得ません。
要するに、剣道が武術として有効性を失い、過剰に「見栄え」を重視する「競技」と「昇段審査」に傾斜したことが、諸問題の原因ではないか、と思うのです。剣道に武術というカンフル剤を注入することができなければ、伝統芸能の一つとして生き残るしかないような気がするのですが、いかがでしょうか。
新年早々、妙なスレを建ててしまいましたが、よろしくお願いします。

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Re: 剣道の未来 ( No.1 )
日時: 2010/01/08 00:11:40
名前: だみ声< >

>子供がスポ小で剣道を始めたのをきっかけに、私も剣道を始めました。
いわゆる遅剣(成人してから剣道を始める人)という状態と思いますが、足掛け5年で三段という事は、一年とすこしで初段、12ヶ月後二段、その2年後に三段という最高速度で合格してこられた訳で、大変な上達ぶりだと感心します。 学生並みの稽古時間を確保できるわけもないはずなのに、大したものです。
きっとセンスも運動神経も優れておられるのでしょう。 うらやましい限りです。

>剣道は、柔道や空手と比較して肉体に対する負荷が低く・・・・・・
そうお感じになるのも、しっかり大人になってから剣道を始められたからだと思います。 指導する側も相手が大人ですから、指導時の負荷のかけ方が違うという事を御理解頂きたいと思います。
学生の間に多かれ少なかれ経験する、あの意識が「遠のいて行く」負荷のかかった稽古は、我々リバ剣族(学生時に剣道生活があり、成人して離れ、年を経て再び剣道を始める人)にとっては「トラウマ」そのものです。
なぜ今剣道を再開して、あの苦しい稽古を再びやるのか? あんな苦しい稽古はやりたくない! と未だリバ剣出来ずにいる元剣士は「トラウマ」から脱出出来ないでいるのです。 思い切ってリバ剣した人の感想は、あのトラウマは「妄想」だった。 今さら成人に、あえて苦しい稽古をして下さる指導者はもういない事に気付くのです。 有る意味安心であり、落胆でもあるのです。 (若くない自分に気付くのです)

>女性や老人でも怪我をせずに楽しめる点が美点と思います。
   美点と言うより、そういうレベルの稽古でも十分楽しめる要素があるという事で、矢張り上達を目指して日夜自主努力している剣士は、アキレス腱も切っちゃう事もあると思いますので、稽古レベルの組み方だと思います。 どの競技でも言える事で、楽しみ方、研究姿勢、稽古の方向性によるのであって、剣道に限らないと思います。

>手間のかかる袴、防具等の着装や、竹刀の手入れ等を通じて、礼儀作法を身につけやすい環境にある点も、優れていると思います。
剣道家が口うるさく言うように思いますが、良く見ていると良い指導者は、道具を粗末にしない事はかなりうるさく指導してます。 これも剣道だけが優れて持っている特別な指導内容とは思えません。
極論かも知れませんが、イチロー選手は、自分のバットは誰にも触らせないと聞き及んでおります。 だれかれ無くその競技を愛し、深く取り組んでおれば、道具を大切にする事はごく自然な行為の筈です。

>一方、たかだか5年程度の経験でこのような言い方をするのは不適切かもしれませんが、剣道の高段者と言われる方々には、技術面、精神面ともに、構造的な問題があるように感じています。
   「構造的な問題」という部分の意味が分かりません、少し説明いただけませんでしょうか?
   ただし、僕もこの点は多少感じる事があります。 僕が感じるのは、特に精神面で、高段者=権力者と思ってるのではないかと感じる人がいる事です。 これは明らかに誤解のはずですが、高段者による技術指導は経験や研鑚に基づく内容が多いと思いますので、耳を傾ける必要はあると思います。

しかし、「七段のワシのために一肌脱げ」とばかりに、上から目線で「指令」されたような場合、「ちがうよなぁー」と思う事はあります。
特に僕もすでに還暦を過ぎておりますし、ほぼ同年代には七,八段が大勢いますから、「段位の下のあんた、これやれっ」と言わんばかりの押しつけがあると、「わかっとらんなぁー」と思いつつ、断る事も喧嘩する事もないような事なら、「ハイ ハイ」と付き合っておりますがね・・・ 断る時もやんわりとです。
そう言う人って決まってますし、こちらも大人なのだから、ぶつかるよりも、適当に付き合うと言う風に、いなしております。 つづく1
Re: 剣道の未来 ( No.2 )
日時: 2010/01/08 00:13:02
名前: だみ声< >

つづき2
>闘争術としての迫力・必死の覚悟を失った武道は・・・
   武道の、または剣道のどこをそのように感じておられるのでしょう? 少なくとも竹刀を持って対峙した相手と有効打突を競い合うとき、必死の覚悟がなかったら、相手に対しても失礼ですが、自分にとっても剣道なんてつまらなく、長続きしないと思います。

>礼儀が形式に留まり、技は廃れ、精神は観念論的に終始することとならざるを得ません。
   剣道をこのようなものに位置付けるのか、更に深遠なる奥深さを探ろうとして修行するのかは、取り組む本人の取り組み方次第であり、観念論的に終始している人など、かまっている暇はないと思います。

>要するに、剣道が武術として有効性を失い・・・
   武術(武道ではない?)としての有効性とは、何を指しておられるのでしょう? 「有効打突」と単にたたき合って、偶然「当たった」事とは決して同じではありません。 確かに真剣を持って切り合った時、打突部位など関係なく先に相手を切った方が勝つでしょう。 これを有効性と言うなら、その剣道は喧嘩と同じです。
   しかも真剣勝負なんて、一回限りのものでしかなく、勝ったから強いなんて事も言えないですし、第一今の世の中でそんなことありえないのだから、真剣に竹刀による「有効打突」を求めるのは、武道として有効性があるのではないでしょうか?

>過剰に「見栄え」を重視する「競技」
   今の剣道試合には、「見栄え」が重視されているとは思えません。 だから当てっこ剣道と言われる所以であると思っておりますがいかがでしょう。
   逆に「見栄え」する一本が決まった時など、観衆も感動して、大きな拍手が起きるのではないでしょうか?
だからと言って、当てっこ剣道と、そうでない剣道って、分離して語れるものではなく、大きく重複する部分を含んでいると思っております。 

>「昇段審査」に傾斜したことが、諸問題の原因ではないか・・・
    試合と審査は違うと言われることへの御意見でしょうか? 
    試合の目的は、相手から有効打突を奪い合い、それを3人の審判が判断して、勝敗を決めるものです。
    審査は、受審者の「錬度」を観て、その段にふさわしいかどうかを複数(5〜7人orそれ以上)の審査員によって判断されております。
したがって「錬度」とはどういうものかが議論されるわけで、受審者は、自分の錬度を審査員をうなづかせる様に表現すれば合格するものと理解しております。 その中に有効打突も含まれるでしょうが、打突に至るプロセスなどの組み立てと、その表現などが、見られていると思います。 つづく2
Re: 剣道の未来 ( No.3 )
日時: 2010/01/08 00:14:52
名前: だみ声< >

つづき3
>剣道に武術というカンフル剤を注入する・・・
    この意味するところは、見栄えだ、所作だ、礼儀だと、しつこく言わず、もっと純粋に「戦い」としての剣道を方向づけたいと言う事でしょうか?
 ★★★たとえば戦前の剣道のような… (後述)

>伝統芸能の一つとして生き残るしかないような気がするのですが、いかがでしょうか。
    「伝統芸能」ではなく、「伝統武道」として生き残る要素は十分あると思いますが、この辺も見解の相違と言うのでしょうか?
    「芸能」という言葉には、「稽古」はあっても、「運動」のイメージがありません。 「武道」で言う「稽古」には「激しい動作」のイメージが大きく存在します。 剣道の稽古には経験的に学生時代に味わった、意識が薄れる、足腰のたたない、あの強烈に激しい稽古の記憶がありますので、「芸能」などと言う言葉は僕の意識には存在しません。

追伸
★★★たとえば戦前の剣道のような…
    僕も経験してませんので、聞いた話でありますが、昭和40年に僕の師匠から聞いた話です。
横面:完全な片手水平打ちによる、こめかみを狙った面です。 少し下に外れると、耳を直撃するので、鼓膜を破る事がよくあったそうです。 左右両方から飛んでくるそうです。
足掛け:鍔迫り合いで近づきすぎた時、柔道で言う小股すくいの様に払われたり、外掛けであお向けに倒されたりしたそうです。
馬乗り:倒れた所に文字通り、のっかられて、ボクシングの様に、小手で面金に左右パンチを打たれたそうです。
面剥ぎ:面金パンチの後、突き垂をつかまれてむしり取られ、素顔に対して小手のパンチを打たれたそうです。

馬乗りにされて、下から抵抗して何らかの反撃も試みるけれど、まず無理だったそうです。 「参ったか?」で「参った」と言うと、仕切りなおしだそうです。 「参った」と言うのが嫌で、抵抗をつづけるほどに、素顔パンチまでやられるそうです。 だから面紐の縛り方も、簡単にはぎ取られないような工夫もしたそうです。

柔道の要素も色濃く入った、実践的剣道なのでしょうが、現代剣道のスマートさはないですねえ。
でも「戦い」の要素を入れるとこう言うのもありかも知れません。 ご自身の将来の剣道にこのようなものへの「夢」がおありなら、いわゆる「守破離」の「離」の段階で研究なさるのも、面白いかもしれませんねえ。

久しぶりに面白いテーマに出会い、かなり考えながら、書かせていただきました。 返信、反論お待ちします。
Re: 剣道の未来 ( No.4 )
日時: 2010/01/09 08:57:20
名前: こてまる

高段者の方ってご高齢の方が多いですよね。「先生、先生」と呼ばれて数十年の方々ですから少し高慢になる方も居られますでしょう。
あと剣道の高段者だからではなくご高齢のせいもあると思います。私の住まいの周りでも年とって性格がきつくなり融通きかない人多んですよ。お茶会とか集まりがあると些細な事でよくもめてるそうです。なのでだみ声先生の言われる通り大人の対応で受け流すのが良いのではないでしょうか。

過剰な見栄えを重視するとありますが、見栄えに天井はなく、
それこそ「〜道」の本筋だと思います。
見栄えの良い、型の美しい剣道を極めるのは、自分の肉体や精神との勝負なので、それによって何か得るものがあり「人格形成の修練の場」はまさにそこだと思います。弓道でも「射型の美」を最も重視してますよね。

日本剣道協会ってご存知ですか?岩石男様のご提案が日本剣道協会のやり方に似てるなと思いました。現代剣道の枝分かれ的な存在で、格闘技色が濃く、足払いや投げもあるようです。道場が東京都練馬区にしかないので、私は見たことがないので詳しくはわかりません。

Re: 剣道の未来 ( No.5 )
日時: 2010/01/08 21:02:25
名前: たま

こんばんは〜、たまです。
だみ声さん、ご無沙汰しております。

>足掛け
>馬乗り
これは、まだ私のところでは、普通にあります。
まあ、高齢の人にはやりませんし、やっても年に一度くらいですが(笑)
私自身は、20歳過ぎてから始めたので、遅剣になるんですかね?
それでも、失神するまでやられましたw
でも、それが今となっては自信になってるから不思議です。

後、付け加えるなら・・・
倒れた後に胴の下と面の後ろを持たれて、きゅっと締められるんです。
とっても苦しいですよwwww
ですから、倒れたときや竹刀を落としたときは、遮二無二相手に組み付くしかないんですね。
ぼーっとしてると、ほんとやりたい放題やられますからね。

打ち込んだ後に抜けようとしたら、面の後ろを掴まれてそのまま壁に・・・
なんてこともあります。

自分で設定してしまった限界を突き破るには、こうした荒療治も必要なことかもしれません。
暴力を肯定する気もないですし、怪我をさせることには断固反対ですが、こうした稽古で怪我をしたなんて
話は聞いたことがありません。
勿論、ここでいう怪我とは、骨折や重大なもののことで、当然打撲や出血はあります。

岩石男さんも、もし望むならそうした場所で稽古されるのもいいかもしれませんね。
それこそ、高段者の先生にお願いすれば、先生自身がやってくれるかもしれませんし、そうした場所を紹介してくれるかもしれませんよ。
例えば、大学の体育会系剣道部の合宿とかもその一つじゃないですかね。

昔ながらの自分を極限まで追い込む稽古、闘争心なくしては達成できない稽古はいくらでもあるんですね。

お互いにもっともっと研究して、見聞を広め、自分を磨いていきましょう。
Re: 剣道の未来 ( No.6 )
日時: 2010/01/09 09:55:20
名前: 凛美優

『岩石男』先生。はじめまして。

ご指摘の通り、剣道されている方の中には、高段者であっても技術が伴っていなかったり、人格が小さな方がおられるのは確かです。しかし、それをもって拙速に剣道そのものに対してネガティブに捉えるのは、いかがなものかと思います。それらは剣道の問題ではなく、個々人の人の問題です。なので私を含め、剣道有段者の方は相応に修業し、恥ずかしくないよう、自己の人格と剣技の向上に努めなければなりません。

多くを語ることはここでは出来ませんが、せめてこれだけはということを意見として言及します。

@ 全日本剣道連盟の『剣道の理念』『剣道修練の心構え』というものをご存知でしょうか。私は、剣道とは、無理に文字にするならば、ここに書かれてあるものと思います。それを目指して私も修業しています。

A 剣道は、剣技の優劣や勝敗を結果として決すること、そして剣技の優位性と勝利という結果を追求するものではありません。自分と自分の対峙に自分で打ち勝つこと、それを追求することにより、自己の人格形成に邁進することが、剣道の存在意義だと思います。

B 剣道は、表見的には『有効打突』を追求するものです。命を懸けた殺し合いの中で結果的な自己の生と相手の死を追求するものではありません。剣道で言う『有効打突』とは何かということを、体感的に精神論的に理解する必要がありますが、換言すれば『有効打突』を如何にして確実に打ち出すかという方法論を追求するものです。ですから過程も大事であり、無の境地に入ること、これが鍵になります。よって、当たったとか当たらないとか、先だとか後だとか、それだけで判断されるものではないのです。

C また剣道の段位や級技能は、あくまで自己の剣の道の指標であり、他の人に優位性を誇示する肩書きや階級ではありません。剣技が衰えても、経験等の基づく人間性の幅や深さ多様さ、慈悲や敬愛の度合いが大きければ、段位称号以上の剣道人と言えるし、そうなり得るものです。体力や身体能力に依存した体技術の相対的優劣の勲章が、剣道の段位ではありません。必ず人間性と人格という抽象的ですけれども普遍的に奥深いものが伴う必要があります。難しい言葉の定義は、剣道の段位規則に出ています。

剣道の初心者や経験の浅い方に、実演を伴ってきちんと上手く教示出来ない私たちにも問題がありますが、どうか技術論ばかりに囚われないように、一刻も早く剣道の本髄をそれぞれの方々なりに体感して頂きたいと願っています。
Re: 剣道の未来 ( No.7 )
日時: 2010/01/10 01:56:22
名前: リブート

岩石様


「剣道が武術としての有効性を失い」「伝統芸能として生き残るしかない」

 上記のフレーズに、私なりの考えを述べさせていただきます。やや、他の方たちと意見を異にするかもしれませんが、私は上記にフレーズでは、岩石男様のご意見に共感します。

 武道とは一体、なんぞや。現代に武士が存在しない以上、現代の剣道人がその問いにいくら応えたところで、その回答は想像の域を出ないと思います。また、過去にそれに応えた人がいても、私たちはそれに対して、解釈をするしかない。例えばそれは、キリスト教における聖書への解釈が様々に存在し、宗派も様々であることと似ています。武道から導き出される礼儀作法も、ゆえに想像からさらに広げた上での想像の創造、ということになるのかもしれません。
 これに対し、武術はかなり分かりやすい。殺すか、殺されるかです。現代にあるもので一番近いのは格闘技だと思います。
 私が生半ながら取り組んでいたキックボクシングでは、打撃が直接的なダメージとして残ります。打たれると、もう、骨折では済まない場合もあります。タバコを吸ってる人もいません。想像ではなく、現実としての生きるか死ぬかが、そこにはあります。であるが故、技は日々、進化します。現実的に考えて、10年前の名選手は現在のトップクラスの選手には勝てません。
 このことは、剣道には当てはまらないように思います。剣道では、新しい技が生み出されることはほとんどないと思います。あったとしてもそれは、邪道的扱いを免れません。また剣道では、それが本物の日本刀であった場合はどうかという設定は、もはや度外視の感もあります。例えば刃を返して小手を下から上に切っても、試合で一本とは認められない、というように。
 武道というものがなんなのかを回答するに想像するしかなく、武術という点から考えても進化が認められない。であるならば、伝統芸能という言い方があっても、おかしくないように思います。(ただし、芸能、と言う点に関しては、日本一を決める全日本剣道選手権以外にお金を取る大会がない以上、芸能としてはなりたっていないようにも思いますが。それはさておき)

 ただ、これは好き嫌いの問題なのかもしれませんが、私は、剣道は伝統芸能であっていいのではないのだろうかと思っています。私は凡人的な剣士で、腕の方も、遠慮ではなく本当に平凡か、それ以下です。しかし、伝統芸能という枠の中で、どれだけ先人たちの智恵に近づくか。これ自体が、私の現在の興味でありまして、その枠内で自分を磨く楽しみを感じているところです。
 音楽に例えるならばクラシック。演奏家たちは、19世紀の音楽家たちの
作り上げた楽譜に対して、守破離の段階をへつつ、楽譜の枠の中で、自らを表現していきます。ロックが好きな御仁ならば何故いまさらクラシック、というところかもしれませんが、その文法、というか音法にのっとってしかたどり着けない、感じられない何かがあるように思うのです。能や歌舞伎にも同じことが言えると思います。そこにもまた、厳しい修行の日々がある。伝統の枠内でみががれながら、なお他の芸術に影響を及ぼし続けうるがゆえに、今に残るもの。それが伝統芸能というものであると考えます。

 対人で同じ体を動かす何かになぞらえるならば、剣道はどこか相撲という世界観と似通ったところがあるようにも思います。相撲道、なんて言葉もありますし。朝青龍が優勝してバンザイをしたらマスコミから総攻撃を受けたあたり、倫理観においても、剣道と相撲道は似ていると思います。
 格闘家に転身してボロボロに負ける力士が後を絶ちません。同じ剣を使うのでも、フェンシングと戦った場合に、それが本当の真剣勝負であるならば、剣道もおそらく、勝てないと思います。
 しかし、だからといって相撲道をいまさら「あれは伝統芸能だから」と誹る人はいません。剣道も伝統芸能。それでよいのではないかと、私は思います。
 正直に申し上げて、私は武道のなんたるやを知りません。知らないし、分からないから、知りたい、感じたいと思い、剣道を続けてみている、というところも私にはあります。

 岩石様のご意見が率直であったがゆえ、私も率直に意見を述べさせていただきました。岩石様、ならびに他の回答者の方々に失礼があったらすみません。
Re: 剣道の未来 ( No.8 )
日時: 2010/01/11 13:01:46
名前: だみ声< >

僕なりに剣道の歴史を時間軸に沿って書くと、おおまかに以下の様になるのですが、今回
の議論はその先を見通すとどうなるのでしょう?
1. 刃物を使って戦争するようになった。銅刀もあったが、鉄刀からとみると、「あめのむ
らくもの剣」(字が分かりません)後の「草薙の剣」が最初と思われる
2. 切る動作に技術が導入され、なんとなく体系が見えるのは、塚原卜伝〜上泉伊勢守〜
柳生石舟斉、伊藤一刀斉〜小野次郎衛門、柳生宗矩辺りで、戦国時代が終わるころ宮
本武蔵が「五輪の書」で初めて分かりやすい解説付きで、剣技の理屈を書き残してい
る。
3. 徳川の時代となり、大坂の陣以後戦争もなくなり、剣豪は食うに困った。五輪の書も
あまり読まれる事もなく、時代は過ぎた。 太平の世となったが、武道は奨励され、「剣
禅一致」などと言う側面も生まれ、剣の道に精神性が色濃く導入された。
これは「剣道のダブルスタンダード」と捉える事も出来る。
「武士道」という躾と言うか、社会秩序を乱さない思想も、このころから自然発生し
たのではないでしょうか?
4. ダブルスタンダードも武道奨励を促進するためには、必要であったと思われる。
何しろ基本的な戦いの場は、道場以外にはない世の中になってきたから、剣をふるっ
て乱暴なだけでは、徳川政権も困るのである。
5. 以前に増して流派が生まれ、町道場が開かれたし、防具に竹刀を使った稽古が盛んに
行われ、奨励もされた。
6. 一方各流派には、形があり、「組太刀」としての稽古も同時進行した。

それでも稽古は色濃く「実戦」が意識され、「敗北は死」であり、実戦型稽古だから、打突部位などに大きな制限がなかったと思う。
だがいくら竹刀と言えども、防具のないところを狙って打てば痛い。危険と言ったかどうか知らないけれど、次第に打突部位を決めて稽古するようになるのは、ごく自然な流れではないか?
それでも流派によって打突部位の捉え方も、打突の効果も判定もまちまちであったと想像します。

紆余曲折も道具の進化もあって、武士は武道をたしなんで、まじめで潔癖な「おさむらい」である事が良しとされたと思います。
徳川260年間、こうして受け継がれてきた剣術は、幕末から維新にかけての動乱期に当然台頭したと思うし、実戦的であった道場や流派が有名になって栄えたと思います。 示現流などその筆頭ではないでしょうか?

そして明治となり、廃藩置県や、廃刀令が出され、ざんぎり頭が普通のヘアスタイルとなり、「二本差し」はいなくなりました。

明治の時代も次第に落ち着いて来たころ、各流派も「剣」のくくりでは、大同小異だから一つにまとめようとなり、それぞれ口角泡を飛ばして議論した結果「日本剣道」という一つの物にまとめられたと聞き及んでおります。
各流派では、小異を捨てて大同に従ったわけだけれど、納得できなかった人々はそれぞれの技を継承して、今日「古流」として受け継いでおり、それらには捨て難い魅力もあるわけです。

更に二次大戦後GHQによって禁止されていた剣道が、昭和28年?解禁となり、復活したのですが、この時剣道はスポーツであると言う位置付けで解禁となった経緯もあり、鼓膜を破る横面を無くし、足を掛け倒して、組打つのは、柔道の領域とばかりに分離し、しない競技としていち早く解禁していた所を統合して、日本剣道連盟が発足しました。
(いきさつに多少の相違はあるかもしれませんが、おおまかこんな流れのはずです。)

そして60年後の今、剣道にもっと戦いの要素を導入し、精神論に比重を置いた剣道とは別の、もっと純粋に「格闘技」としての剣道を語る… と言うかそんな剣道が本来の姿ではないか!という議論です。

こう言う発想の背景には、たとえばプロレスと空手と、キックボクシング、柔道、相撲を全部混ぜて、本格的な格闘技として、人間の体力の限界をぶっつけあうジャンルが登場してる事も考えられます。テレビで放送される状況を見ると、「剣道は生チョロイ」のかもしれませんねえ。
何しろK−1なんてほとんどなんでもあり、ボクシングでも捕まえやすくするため5本指型のグローブです。

だからかもしれませんが、こてまるさんがお書きになった「日本剣道協会」はそういう気持ちの強い剣道家の方向性を示しているように感じます。
いずれにしても、打突をポイント制などにしてしまうのは避けたいですがね…
Re: 剣道の未来 ( No.9 )
日時: 2010/01/11 12:32:24
名前: 凛美優

『岩石男』先生。皆さま。お元気でしょうか。

各人様々なご意見あってよろしいかと思いますが、やはり相応に学び、多くの先人先輩からの伝承口承等を踏まえ、一つのお考えに行き着いてから、自己の進むべき方向を決めて取り組むべきだと思います。私も含め、何事も他人に強要は出来ません。最後は自分自身の中で自己の信念と哲学に従い進むものだと思います。

私の学んだ剣道の歴史観は、『だみ声』先生のお話しの通り同じです。
今一つ、僭越ながら私の認識として付け加えたいのが、『殺人剣』から『活人剣』へという時代的な変化です。

『殺人剣』は、相手の殺傷という結果の追求であり、戦いの中で自己の生の確保と相手の死が、結果的に得られれば、戦いの方法論は何であってもよいとするものです。死人に口なし。敗者には語られる機会は皆無です。

『活人剣』は、私なりに解釈すると、無念無想の究極の勝負から相手への尊厳の念と敬愛の想いが具現化し、最後は相手を通じ自己の姿を自分で見つめる域に達する、というその過程の中で修練することが、人間形成に寄与する、というものです。

私も5段までは如何に相手を倒すかということばかり考え、よく師範の先生から『殺気が強すぎよく見える。それでは一本は取れない。』と言われました。よく理解できませんでしたが、要は、お前が殺気強く攻め込んでも、合気の勝でいつでも捌ける、ということのようです。6段を目指す頃から、よく自分を見つめ直しました。

最後に、もし真に格闘と武闘的要素を最優先にするならば、予め面・小手・胴・突きと打突部位を確定している剣道では、そもそも不向きです。剣道は、相手も自分も同じ条件とスタイルで対峙することが原則です。剣道の、鍔競り合いとか、引き技とか、相殺技(相小手面など)とか、体当たりとかは、殺人的武闘の場では、全く意味を成さないものです。五つの構えも、足捌きも同様で、相手が自分と同じ流派と武器とスタイルで対峙するという前提が一切ない世界では、如何なる方法で相手を効果的に殺傷すればいいのか、私も良く分かりません。

『殺人剣』というレベルではなく、剣道のスタイルを踏襲して、もっと激しく荒々しくぶつかり合うような乱暴さが必要だという観点だとしたら、そもそも何故剣道で…という疑問が残り、何故、総合格闘技スポーツでやらないのか、という問題意識は払拭できません。そちらの方が、相当なレベルで目的を果たすことができるのではないかと思うからです。違いは剣のような棒を使うか素手かの違いだけですから。要すれば、剣のような棒を使う総合格闘技スポーツという域に達すると、それは剣道ではないと思うのです。

あと打突や反則をポイント化したとするならば、『生涯剣道』はあり得ず、それは『剣道』ではなく、別の名称のもの、差し詰め『KENDO』という別のものとして位置付けるべきものだと思います。若い時に如何なる勝績を残そうとも、現役を退けば、ただの人となります。プロ野球選手の厳しさがいい例です。

剣道を学び、道を歩む剣道人の方々が混乱しないよう、剣道指導者は、常に究極の本質の目的を見失わないよう、常に自ら学び努力する必要があります。
Re: 剣道の未来 ( No.10 )
日時: 2010/01/14 19:31:39
名前:

岩石男さん、今の主流の剣道家と議論しても無駄だし。

プロスポーツ選手が引退してもただの人は、間違いくなることはない。

同じ年齢の人と比べて、基礎体力、運動能力は遥かに驚くほど高い。

下手な若者より優れている。
Re: 剣道の未来 ( No.11 )
日時: 2010/01/14 21:23:47
名前: だみ声< >

錬さん  ここは文字のみで議論or話し合う場所です。 お互い誤解のないように文字で表現しなければ、議論はすれ違うか、不要な所で衝突しかねません。 もう少し一般読者に理解できるように書いていただきたいです。

  >岩石男さん、今の主流の剣道家と議論しても無駄だし。
     何が、なぜ、どう無駄なのかが分かりません。 議論を交わすのだから、言いたい事を正確に表現しなければ議論にならないですよね。 錬さんの書き方はそういう意味で、あなたの真意が伝わって来ません。 したがって、残念ながら正しい議論(同じ土俵の上に立った)ができないです。

  >プロスポーツ選手が引退してもただの人は、間違いくなることはない。
    たぶん入力ミスだと思いますが、日本語になっていません。 

  >同じ年齢の人と比べて、基礎体力、運動能力は遥かに驚くほど高い。

    下手な若者より優れている。
    主語がないので、誰の事を言っているのか想像の域を出ません。 
ただし、錬さんの様な方とネットを通じて、思っている事を書き連ねるのは、僕は嫌いではありません。 今一度お考えの内容を書いていただきたいです。
Re: 剣道の未来(その1) ( No.12 )
日時: 2010/01/14 21:55:58
名前: 岩石男

岩石男です。
 私のような初心者の妄言にお付き合い下さる方がこれほどいらっしゃるとは、想像もしておりませんでした。ありがとうございます!
 注意して記述したつもりではありますが、理解の及ばない部分について無礼な記述があるかもしれませんので、ご容赦下さいますようお願いいたします。
Re: 剣道の未来(その2) ( No.13 )
日時: 2010/01/14 21:59:06
名前: 岩石男

To だみ声様
 多岐にわたってご指摘いただき、ありがとうございました。

1.剣道の稽古で、遅剣の初心者に対してハードトレーニングを課す指導者がいない、というのはご指摘のとおりと思います。
 稽古に関しては、取り組み方によって、ハードにも、ソフトにもできると思うのですが、試合に関しては、競技の形態によって、ハードさが大いに違ってくると思うのです。
 剣道の試合ルールは、肉体に対する直接のダメージを廃し、力ではなく技を競うものとなっているため、「女性、高齢者でも楽しめる」と書きました。
 柔道、空手の試合では、相手の肉体に対して直接ダメージを与え、力と技を競うものとなっており、極端な話、単純な体力差であっさり技が封じられてしまうこともあります。

2.日本人のトップアスリートが道具を大事にするという点については全く同意しますが、礼儀作法を身につけるための体系があるか、といわれれば疑問に思います(これはむしろ、武道の影響を受けているようにも思うのですが)。
 剣道の場合、一般に武道で要求される道場への出入り、所作だけでなく、袴、防具の着装、竹刀の手入れに至るまで構造化された礼儀作法の体系が特徴的で、礼儀作法を身につけやすい環境にあると考えました。

3.次のような点を念頭に置いて「構造的な問題」というふうに申しました。
(1)技術的な点
 試合にはルールがあり、ルールに従って試合をすればスポーツとしては十分と思います。
 このルールが武道の目指す技術を発達させる上で有益であれば、武道としてもとりあえずOKと思いますが、これだけでは不十分と思います。
 ルールに縛られた試合ではなく、命のやり取りをも想定した技を必死に磨き、磨いた技を鞘に収めるという姿勢があって初めて、山岡鉄舟が到達した「無刀」の域に至ることができるのではないかと思うのです。
 このような修練の方法論として、古来剣術の「形」や「組太刀」が伝えられて来たはずですが、剣道高段者の方々は、試合ルールに縛られた剣道の技と、昇段審査に必要な見栄えのする立ち会い、剣道形以外に興味をお持ちでないように見えます。
 このような状況は、試合ルールと昇段審査の呪縛という構造的問題ではないか、と考えました。
(2)精神面について
 大変残念なことですが、剣道の段位と実力が必ずしも一致するとは言えず、剣道の段位と人間の品格が必ずしも比例しないと言わざるを得ないと思います。
 しかし、高段者の中には、剣道の段位=実力=人間の品格という前提の下に、下位の人間に接しておられる方々がおられるように感じています。
 もちろん下位の人間にも問題があり、高段者の方が言うことを金科玉条として、疑うこと、逆らうことをタブー視しているように見えることも多々あります。
 剣道の段位=実力=人間の品格という虚構を前提とした人間関係は、知らず知らずのうちに、人間の精神を蝕んで行くことを懸念します。
 この高段者と下位の人間の特異な関係は、段位制度の持つ虚構性による構造的問題ではないか、と考えました。
 大人として受け流すという対応は、緊急避難的なものであり、これが長期かつ一般的となっているとすれば、真に武道としての危機ではないかと思いますが、いかがなものでしょうか。
Re: 剣道の未来(その3) ( No.14 )
日時: 2010/01/14 22:00:26
名前: 岩石男

To だみ声様
 先ほどの続きです。
 
4.過剰に「見栄え」を重視する「競技」と「昇段審査」
 100の稽古をして1の表現しかできない者もいれば、10の稽古をして100の表現ができる者もいると思いますが、私は、武道修行者としては前者の方が遙かに尊いと思います。
 剣道では試合における技の有効性も、昇段審査における練度も、第三者(審判、審査員)が判断しますが、この際、表現力(見栄え)がポイントとなっているように思えてなりません。
 ある程度客観的な判断が必要との観点からこのような方法が取られているのかもしれませんが、この第三者に対する表現力、というのが曲者です。
 第三者の視線を意識することによるメリットも多々あろうかと思いますが、人の視線を意識することによって、本来自分の内面を掘り下げるべき力が、見栄えを良くしようという方向に分散し、弱まってしまうように思います。
 古来、武術の技は人前で見せるものではありません。
 本来、剣道の体系から見てもほんの一部に過ぎない「試合」や「昇段審査」に拘泥される方がここまで多いのは、見栄え、というか第三者の評価(視線)にこだわる方が多いからではないかと思うのですが、いかがでしょうか(昇段マニュアル的な出版物が氾濫している武道は、剣道だけではないかと思います)。

5.武術というカンフル剤の必要性(剣道の武術としての有効性、闘争術としての迫力等)
 武術としての有効性とは、いざ事があったときに遅れを取らないための備えを身につける、ということで、「必勝」ではなく「不敗」を目指す、ということです。
 剣道の試合では勝ち負けは競いますが、命に別状があるかもしれない強烈なダメージはありません。剣道の場合、必死の覚悟は、試合とは別の場面で涵養する必要があると思います。
 ルールのある試合で身につく技倆はよしとして、試合では身につかない技・覚悟をどのようにして身につけるのか、という点が、剣道の武術としての有効性を考える上でのポイントと思います。
 このためには、竹刀を使った稽古だけではなく、刃物を持ったものに素手で対応するための技(柔術)等の修練も必要と思います。古流の形、組太刀等は、この種の技の宝庫ではないでしょうか。
 また、このような稽古を迫力のあるものとするための方法論も、伝統に学ぶのが早道と思うのです。
 これは、剣道に剣術という武術のエッセンスをカンフル剤として注入することに他ならないと思います。
Re: 剣道の未来(その4) ( No.15 )
日時: 2010/01/14 22:02:04
名前: 岩石男

To こてまる様
 ご指摘、ありがとうございました。
 高段者の方々への大人の対応については、やむを得ぬものとは思いますが、少なくとも剣道の修行がマイナス側に作用しないものであって欲しい、と切に願うものです。

 見栄えについてですが、自分自身にとっての見栄えであれば全く同意です。
 しかし、自分の師匠でもない人にどのように見られるか、などということは、本来脇道に過ぎないのではないでしょうか。
 弓道の美しさも、本来は的にあててこその美しさであったように記憶するのですが・・

 日本剣道協会の件、ありがとうございました。
 HPと稽古場所は調べました。実況をよく調べた上で、一度見学したいと思っています。

To たま様
 ご指摘、ありがとうございました。
 激しい稽古をなさっておられるのですね!

>倒れた後に胴の下と面の後ろを持たれて、きゅっと締められるんです。
 これは苦しそうですね!
 武道における真の極意は経験にしかない、と思いますので、是非一度は経験してみたいと思います。
 私が考える「武術というカンフル剤」というのは、ルールが存在せず、相手が何をするかわからない戦いで負けないための技をどのようにして磨くのか、という点に尽きます。
 そのためには、想像力と思考力が必要ですが、何事も経験した上でなければ、単なる空想に終わってしまうでしょうし、頭で考えた内容をどのように検証するのか、という点も同等に重要と思います。
Re: 剣道の未来(その5) ( No.16 )
日時: 2010/01/14 22:03:23
名前: 岩石男

To 凛美優様
 ご指摘、ありがとうございました。
 5年間程度剣道に関わった遅剣の僻見にすぎませんので、ご批判、ありがたくちょうだいいたします。

 全剣盟の『剣道の理念』『剣道修練の心構え』は、存じておりますので、ご指摘の@、Aについても承知しております。生死を凝視した修練あってこそ自己鍛錬がなされ、そのような自己鍛錬があってこそ、他者への共感が培われるものと思います。しかし、試合や昇段審査を目標とした稽古が、私には、これにふさわしい修練と思えないのです。

Bは私の理解を超えているようです。
 
Cについてです。武道を嗜む以上、段位の有無にかかわらず修行に邁進するべきと考えますが、問題は、修行において段位という制度が本当に有益なのかどうか、という点です。
 全日本剣道連盟の「剣道称号・段位審査規定」を再読してみましたが、凛美優様が仰る内容とは、いささか趣が異なり、段位において技倆を客観的に評価し、権威化しようとしているように読めます(実際に「称号を権威あるものとして位置づける」という文言もありました)。わたしは、一般に「客観性の高い評価」は武道には不要で、有益であるとしても、初歩の段階のみであろうと

●NO9.でご指摘いただいた内容についてです。
 だみ声様へのご回答と重なる部分もあるのですが、あえて申し上げます。
 私は、総合格闘技的に剣道の試合を実際の戦いに近づけて行けばよい、と考えているのではありません。試合はどこまで行っても試合で、ルールを設定しなければ試合になりません。
 ルールのある試合で身につけられる技倆はそれで良いが、他者との戦いを想定したとき、ルールのある試合では身につかない技術・気迫をどのようにして普段の稽古で身につけることができるのか、という点が重要であり、これを「武術というカンフル剤を注射する」と表現しました。

 武道(武術)は、本質的に
 実際の戦い→ 武道の理念・稽古の体系 
         → 武道の理念・稽古の体系を反映した試合ルール
という構造を有しており、試合はあくまで稽古の効果を検証する程度の位置づけであり、最終的には実際の戦いによってその有効性を判断し、理念・稽古の体系にフィードバックするものと思います(武者修行、他流試合は、このような性格を持っていると思います)。
 これに対してスポーツは
  試合のルール 
   → 試合ルールに最適化した練習(試合結果に基づくフィードバック)
となっており、単純明快です(他流試合は冗談にしかなりません)。

 武道の精神的・技術的な深さは、勝利が他者の死、敗北が自らの死という極限の状況が想定することに起因するはずです。試合を超えた生死をかけた戦いに想いを馳せることがないのであれば、もやは武道とは言えないのではないかと思います。
 もちろん、現代社会において殺人術そのものが生息することはできませんが、だからこそ、様々な格闘技、戦い、古伝の流儀等を多面的に分析し、可能な限り実践、経験を蓄積することが必要と思うのです。
Re: 剣道の未来(その6) ( No.17 )
日時: 2010/01/14 22:05:29
名前: 岩石男

To リブート様

 ご意見、ありがとうございました。
 試合のルールがその武道の全て、と考えておられる方があまりにも多いことには、いつも驚かされます。
 武道とは本来、総合的で全人格的なものであると思います。
 あらゆる出来事を想定し、全身全霊を振り絞り、生死をかけて戦うという点が特徴であり、それ故に精神的、技術的な深さが生まれるのだと思うのです。
 凛美優様への回答にも書きましたが、私は、剣道の試合ルールを多少実戦を想定したものに変える、ということは、あまり重要と考えていません。多少実戦的になったルールの中でしか使えない技が出てくるのが関の山と思うからです。
 実戦に必要な技術・気迫は稽古で徹底して身につけ、ルール上許された技のみを使って試合では戦う、ということができれば良いのです。
 現実には経験しがたい「実戦」をどのように概念整理し、可能な範囲で実践し、経験を積むことができるのか、という点が問題ですが、この点については古くから伝わる日本武術の知恵を総動員する、という方法が最も有効と思うのですが、いかがでしょうか。
 なお、武道・武術の実生活における有効性を除却し、「美」とか「調和」という観点から再構築したものは「伝統芸能」と呼ぶのが適当と思います。
 もちろん、この「美」は人類最高の価値の一つであると思いますが、「武道」と混同しないようにするべきであると思います。  

 私見ですが、相撲は本来神に奉納するものであり、いわゆる格闘技と考えてはいけない、と思います(神事です)。性格的に最も類似しているのは、プロレスであり、プロレスはキリストの受難劇を模した性格を強く持っていると思います。
Re: 剣道の未来 ( No.18 )
日時: 2010/01/15 01:29:32
名前: 凛美優

『岩石男』先生。

注意深く何度か読み返してみましたが、このサイトで、問題意識が何で、どうしたいのかが、少しよく分からなくなりました。すみません。時をおいて、再度、読み返してみることにします。

剣道の称号と段位の規程の表現についてですが、剣道には、昔、十段まで段位があり、錬士以上の称号も、五段以上で取得することが出来る時代があり、それが、今の八段最高段位、剣道最高位の称号としての範士、という改訂があったのをご存知でしょうか。剣道十段と九段の廃止や、新しい称号・段位の規則の施行等にまつわる経緯や背景等を踏襲すれば、それらの語句の意味も分かると思います。

本来あるべき『有効打突』とは何かということも、やはり体感または体現出来うる域にならないと、文字と理屈だけでは疎通は困難です。

ご自身の信念やお考えを否定する気はありません。また私の考えを強要する気もありません。どうかと問われたと思ったので、私の考えを返信しました。

私の結論は、返信の当初冒頭に記述の通り、自己の信念に従って自己の道を自分で進めばよろしいのではないか、ということです。私の剣道観は、裏付けとなる無数の過去の足跡がありますので、深い実感と説得力が伴わない限り、理屈だけ聞いても、何も変わりません。
また、そういう見方や考え方をしている人が全国にはいるのか、という見識や見解についての拡大的な姿勢や尊重的な姿勢を持たないと、あまり意味のない文字のやり取りとなります。

再読の上、理解に及べば、改めて返信いたします。
Re: 剣道の未来 ( No.19 )
日時: 2010/01/15 15:55:23
名前: だみ声< >

たいへん興味深い議論なのですが、話題が多く、議論が広がるにつれて、争点がずれそうですので、まとめてみます。
岩石男さんのお考えは、大きく2つに分けます。

1つは、剣道は負荷のかかり具合の幅も大きくとれるから、老若男女に普及しやすいが、
高段者高齢者には、精神論重視が目立ち、実際の戦いの場では役に立たないと感
じる。 見栄え重視だけなら「剣道は芸能」という位置づけになる。

2つは、剣道の技に武術要素をもっと盛り込んで、実戦にも役立つ物としての位置付けも
必用なのではないか? この場合の実戦とは、試合ではなく「護身」に近いと言
える。せっかく身につける剣道の技なのだから、突然襲われたときに戦えるよう
な要素も大切ではないか? これを武術としての有効性と呼んだ。

こんな感じで、どうでしょう? 
これに僕は、勝手にコメントしてみます。

ぼくの選択肢は、1です。
剣道は「芸能」ではなく「武道」と言わせていただきますが、僕は自分の剣道をこれで良いと思います。
負荷を掛けたければ掛けることも出来ますし、見映えのする立ち会いも心掛ければいいですし、そこから気剣体の整った一本を繰り出す工夫をし続けていきます。
人間的に??の高段者や高齢者がおれば、先ずは距離を置いて、出来るだけかかわらない所で剣道をやります。 ぶつかって争うことは基本的に避けます。たとえ理不尽な謝罪をさせられてもです。これは剣術で言う「無手勝流」で有り、「無刀」として感情処理しちゃいます。(そう言う処理でストレス溜めない年齢になったとも言えます。)

2について一言述べると
  どの武道家が、突然の襲撃に本当に対応出来るのでしょうか? いきなりぶん殴られたとき、強靭な肉体を鍛えてあれば、そこからの対応は出来るでしょう。
しかしいきなり斬りつけられて、無傷でおれるでしょうか? 戦国のぴりぴりした時代なら知りませんが、平和ぼけと言われるニッポンに於いて、身の回りの殺気に対して警戒し続けるのは不可能です。
しかも襲撃される至近距離にいること自体を未熟と捕らえれば、1の精神論の感性で殺気を感じれば、回避するのはたやすいことです。 つまり戦うことを前提とせず、襲撃されること自体が未熟であり、衝突しない身の処し方が出来れば、武術は不要であり、剣道は1の領域で楽しむことが出来ると考えます。

と言いつつ、これって体力も減退し、すぐ息切れしてしまう還暦過ぎのオッサンの単なるたわごとかも知れませんねえ。
Re: 剣道の未来 ( No.20 )
日時: 2010/01/15 18:55:43
名前: 岩石男

To 凛美優様
 ご回答、ありがとうございました。
 当方からの回答は、ご指摘いただいた点に関して、やや雑駁になってしまったと思います。申し訳ございませんでした。
 凛美優様は、剣道の神髄は初心者にはわからない、剣道について経験に裏打ちされたお話以外は聞く価値がない、とお考えのように思います。
 そのとおりなのかもしれません。

 しかし、一点だけ質問がありますので、申し訳ございませんが、もう少しおつきあいください。

 凛美優様は、
>剣道は、相手も自分も同じ条件とスタイルで対峙することが原則です。剣道の、鍔競り合いとか、引き技とか、相殺技(相小手面など)とか、体当たりとかは、殺人的武闘の場では、全く意味を成さないものです。五つの構えも、足捌きも同様で、相手が自分と同じ流派と武器とスタイルで対峙するという前提が一切ない世界では、如何なる方法で相手を効果的に殺傷すればいいのか、私も良く分かりません。

 と、ご回答下さいました。凛美優様のお考えになる剣道の技術は、武術的にも護身上も無意味なのだ、と解釈してよろしいのでしょうか。
 もしもその通りであるとすれば、警察官の方々が職務において剣道の特練に励むこと自体、大変な税金の無駄遣いということになるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 私は、剣道の稽古が警察官の方々に要求される逮捕等に必要な実力を養う上で有益であるから、税金を使って剣道の稽古をしている方々がいらっしゃるのだと信じていました。
Re: 剣道の未来 ( No.21 )
日時: 2010/01/15 19:43:18
名前: 岩石男

To だみ声様

 論点を整理いただき、ありがとうございました。
 論点が拡散した回答となってしまい、申し訳ございませんでした。
 整理いただいた内容に、多少補足させていただきたいと思います。

1.「一つは」として整理いただいた点
 武道は、殺し合いを高度に抽象化したものであると思います。
 抽象化の方法により、剣道、柔道、空手道等の戦闘技術に分化しますが、常に抽象化する前の、「殺し合い」という生の現実を意識しなければ、技術の迫力も、精神的な深さも失われ、要するにニセモノになってしまうのではないかと思うのです。
 抽象化した後の技術に埋没してしまうと、技術が現実との接点が失われて、「見栄え」や集団内でのヒエラルキー以外に関心事がなくなり、現実的な有効性を持たない芸能化してしまうと思うのです。

2.「二つは」として整理いただいた点
 「殺し合い」という生の現実に対して最も賢明なのは、言うまでもなく、避けられる戦いは避ける、機先を制して逃げる、ということです。従って、武道の修練においても、この点に最大の力点を置くべきと思いますが、これを精神論だけでなく、日常的な稽古を通じて薄紙を重ねるように、心技体ともに鍛錬することが、武道の本義と考えております。
 剣道の技術の有効性について真剣に考察し、あたう限りの実践を通じた検証を行わないと、上記1.で述べたように、技術も精神もニセモノ化してしまうように思うのです。

 以上の補足を踏まえて、だみ声様からいただいたコメントに対して思うのですが、ご指摘のような稽古を通じて、「殺気を感じて危機を回避する」能力が得られるのであれば、これはある意味で究極の護身術であり、大変貴重なものであると思います。
 しかし、他者が危害を加える方法を知らなければ、的確に危険を察知することが困難と思います。
 少なくとも私には、様々な戦闘技術を研究し、対応できるように心技体を鍛錬する必要があると考えております。
Re: 剣道の未来 ( No.22 )
日時: 2010/01/16 11:45:49
名前: 凛美優

『岩石男』先生。

反復し熟読いたしましたが、私の理解力が伴わず、依然、不透明さを払拭出来ません。すみません。

しかし、一つだけ見えてきたのは、先生のいう『剣道』と私がやっている剣道は、明らかに目的も本質も異なるということです。私は、自己の人格的な修練を目的に剣道をしています。立派な人間では決してありませんが、そうなりたいと強く望んで、それを目指しています。剣道修業から社会や私生活に生かすのは、剣技や体技や刀の扱いではなく、その培った人間性と幅と深さと大きさだと思っています。その剣道の剣技や体技などは、対人的には、道場や試合会場でしか、絶対に使いません。たとえ不意に襲われても、その際に、目前に木刀や刀があっても、それを使いません。とっさに使うことも絶対にありません。やられるか、剣を使わない別の対応を確実に取ると思います。なぜなら、私の剣道における剣とは、弱い自己の姿に対し向けられるものであり、自分以外の人間や生き物や物を斬るために使用したり利用したりするものではないからです。突然、刀を持って構えた人が、自分に向かってきても、私は、剣を持って対峙することは絶対にありません。そこが剣道場またはそれに順ずる場であり、剣道をすることを目的として明確に持っているのならば、私も剣を抜き相対峙し、剣を持ってお応えすることもあるかもしれません。しかし、それ以外はありません。

よって、私のやっている剣道の技術は、『殺し合い』を意識した術でもなければ、不測の事態や不当な事態に遭遇した時の護身上の術でもありません。そこが、決定的に先生と認識と位置付けと本質が異なる所です。目的も本質も異なる限り、私のやっている剣道の剣技のすべては、先生の言われる『武術的にも護身上も』全くもって無意味です。

また、警察で行われている格技訓練としての剣道が、如何なる目的と狙いをもって行われているかは、言及する立場ではないので、コメントはできません。勿論、その妥当性についても同じです。しかし、私は警視庁以外の警察は、あまり見たことや対峙したことはありませんが、警察剣道は警察剣道なりに、その目的のあり方に応じて、独自の剣術を訓練したり、独自の段位を導入したり、独自の作法と方針を確立し、色々な取り組みをしています。でも一般の道場で剣道をする場合には、それを控え他に強要はしていません。少なくとも税金の無駄使いとは、私は思いません。

最後に、剣道を殺し合いを強く意識したものとして位置付けたいのならば、防具を着けること、打突箇所を特定すること、断面がほぼ丸形の竹刀を使うこと、それら自体が、既に殺し合いを強く意識していない証拠です。殺し合いを意識するならば、全身のどこを打ってもいいはずです。構えも入りません。手にする剣の本数も、毒霧だって飛び道具だっていいし、気合をかける必要もなく、剣だって殺傷力が日本刀とほぼ同じの木刀を使って振り回せばいい。目潰しや急所攻撃だって何でもありです。それは、私の知る剣道ではなく、私の歩んでいる剣の道でもありません。残念とは思いませんが、当然、議論は噛み合いません。

取り急ぎ、見えた所だけ返信しました。繰り返しますが、強要する気はありません。何人も判断主体の歩む当事者はそれぞれ自身ですから。失礼します。
Re: 剣道の未来 ( No.23 )
日時: 2010/01/17 00:52:08
名前: だみ声< >

始めから読み返してみましたが、要するところ「剣道に取り組む姿勢にも多くのスタイルがある。」と言う事になりそうです。

それぞれの皆さんが、ご自身の取り組む姿勢とその根拠を披露して行くと、さまざまな個性的な内容が出てくるわけで、読んだ人が共感するか違和感を感じるか、そして読者もまた自分の取り組む個性を披露して議論に及ぶわけです。

今回の議論は、どれか一つに集約して合意を得ると言う物ではなく、「俺はこう思っている」「俺もそう思う」「いや、俺はチト違う」「なるほどそう言うのもあるのか」「でも俺はやはり俺の考えで行きます」が着地点だと思います。

上記のような事でいいと思うので、剣道に対する僕の思いをご披露します。
殺傷技術を発端とした戦い方の研究に端を発したあらゆる武術は、平和と言うより殺傷行為のない社会においては、平和利用へとシフトし、殺傷相手を「修行の同行者」と位置付け、呼び方も「敵」ではなく、「同朋」「せいぜい上達のライバル」だと言えます。 だから道場の外では、友人、仲間、親友なのです。

そして上達とは、「技」と「心」の両方を持って言うのであり、片方が先行する人もあるわけで、その配分も個人にゆだねられると言う事です。

僕のように年と共に技は下手くそになり、初心者にも打たれまくるようになると、口も達者なので「心」を磨いて人間的に「優れて」行くことが重要だ、と説教垂れるようになるのです。
聞く人によっては、もはや技でモノが言えなくなったから、「詭弁」に走るのか、と捉える方も出てくるわけで、それもその方の受け取り方次第なのだと言う事ではないでしょうか?

でもこういう思索を続けていくと、相手の気持ちを考えたり、読んだりすることが出来てきます。 今怒ってるぞとか、あいつ目つき悪いから距離を取っておこうとか言う行動が出来る事があります。 それでも突然襲われて「うんちくたれる剣道家、あえなく凶刃に倒れる」なんて記事に登場する事もあり得ると覚悟して生活しています。
Re: 剣道の未来 ( No.24 )
日時: 2010/01/17 23:30:12
名前: 岩石男

To 凛美優様
 ご回答、ありがとうございました。
 答えにくい質問に対して率直にご回答いただき、ありがとうございました。

 Wikipediaでは、
「武道(ぶどう)とは、伝統的な日本武術(古武道)から発展したもので、人を殺傷・制圧する技術に、その技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざす、といった道の面が加わったものである。」としています(なかなかよく整理された文言であると思います。)。

 多分これが世間一般の理解であり、凛美優様のお考えとは異なると思いますが、いうまでもなく、「武道」への想いは各人各様です。
 今後とも信念に従って剣道の修行を続けられることをお祈りいたします。
Re: 剣道の未来 ( No.25 )
日時: 2010/01/18 00:22:09
名前: 岩石男

To だみ声様

 ご回答、ありがとうございました。
 「剣道に取り組む姿勢にも多くのスタイルがある。」とおまとめいただきましたが、同意です。

 以下、蛇足を述べさせていただきます。

 「道」と称されるものは、武道だけでなく茶道、華道、書道等の芸道もあり、いずれも技術の修練を通じて、人格の完成を目指すものと考えて良いと思います。
 この技術の修練を真剣に、必死に行わなければ人格の完成など覚束ないわけですが、修練すべき技術が、真剣かつ必死に取り組むに値するものかどうか、という点が問題と思います。
 武道で習得する技術は、一歩間違えば人を殺し、あるいは殺されてしまうかもしれないからこそ、芸道とは異質の真剣さ・必死さが要求されるのだと思います。
 もしも武道の技術が武術的に全く有効でないとすれば、全く真剣味・迫力を失ったニセモノとなるか、新興宗教のごときものとなるか、いずれかではないかと思うのです。
 私が剣道高段者の方々の精神面、技術面に構造的な問題点があるように感じる、と申しましたのは、このような問題意識に基づくものです。

 冒頭で整理いただいたとおり、今現在剣道に取り組んでいる方は、いずれにせよ各人各様の武道観に基づき修練を積む以外の方法がないと思います。

 しかし、剣道が護身や闘争に全く役に立たないことを十分に知った上で、剣道という武道を始めようとする方がどれほどいるのでしょうか。警察においても、剣道は実用上役に立たないので、剣道ではなく柔道や逮捕術の稽古を行うべきだという幹部の方も多い、という話も伺ったこともあります。

 私の住む地域では剣道人口が減少し、解散するスポーツ少年団がある一方で、空手や少林寺拳法などの道場は、高額な費用にもかかわらず、道場生が道場に入りきれないほどの盛況です。
 長年剣道の世界にいらっしゃる方々の視界には入りにくい事項であろうと思い、新年早々お騒がせなスレを立ててしまいました。

 素人の妄言におつきあいいただき、ありがとうございました。
Re: 剣道の未来 ( No.26 )
日時: 2010/01/18 11:31:55
名前: 剣ヒロ

初めまして。岩石男様
一連の文の流れを拝見させていただき、思うところがありましたので、書かせていただきました。

私自身も剣道歴はせいぜい20年程度しかなく段位もそれほど高いわけではありませんが、若輩ながら剣道少年団で指導をさせてもらっている者です。先生方に指導を依頼されたわけではなく、私自身剣道が出来る場所を求め参加していたら自然にそんな立場になってしまった、そんな中途半端な指導者であります。
ただ、声を大にして言いたいのは、そこで元気に大きな声で竹刀を振り、楽しそうに稽古をしている子供達に対し、「護身や闘争手段としての殺傷術なる剣道」を教えているつもりは毛頭ありません。また私の子供にも剣道をやらせるつもりなのですが、そのような認識の元で剣道を習わせたいとも思いませんし、礼儀を養うだめの「剣の理法の修練に伴う人格形成」といった建前を大上段に構え、子供達の人格形成のため自分の仕事後の貴重な時間をボランティアに費やしている訳でもなく、自惚れている訳でもありません。
ただ、剣道が楽しくて好きだからやっているわけでして、少年団に集う(継続できる)子供達もそれだけが目的だと信じています。
子供達の動機は大概「面白そうだなぁ〜やってみよう」じゃないですか。

また剣道が護身や闘争に全く役に立たないという認識をされているようですが、護身という意味をもっと広く持たれてはいかがでしょうか。何も背後から襲ってくる暴漢だけが、人生全ての脅威では無いのですし。

闘争術としての迫力・必死の覚悟を失った武道は、確かに実用性はないかも知れません。人はその場に直面しない限り、真の意味での必死の覚悟なんて出来ません。儒学の書物にこれらの事が掲載されているのですが、私もまだ勉強中で詳しいことは語れませんが、これらを踏まえ、例えば真剣なら初太刀で人生が終わりますが、剣道には防具があります。刀も竹刀です。何度でも初太刀を放てるのです。だからこそ必死の覚悟が薄れると思われるのでしょうが、それは剣道に取り組む方々自身の問題であって、剣道が「そういうもの」ではないはずです。

また私の住んでいる地方は空手より剣道人口の方が多いですが、空手は剣道より知名度、取っ付きやすさがあるのは事実だと思います。興行としてTVとかにも大きく取り上げられ、また高価な防具を買うこともない。でも剣道は防具を担いで他の道場へ出稽古に行くことが容易に出来ます。これは大きなメリットではないでしょうか。空手だったら道場破り呼ばわりでボコられますよね。
競技人口の差は、当該競技の質の差から来る問題であり、連盟云々の構造的問題とは少し違う気がします。


乱文乱筆、失礼致しました。
Re: 剣道の未来 ( No.27 )
日時: 2010/01/18 04:46:40
名前: 莵剣士< >

岩石男様

剣道歴実質5年の30代手前ひよっこ剣士です。
若輩者で申し訳ありませんが、私も少し思うところを。

「剣道が護身や闘争に全く役に立たない」とのことですが、
岩石男様は実際に武道の未経験者および、経験者と立ち会われたことはおありでしょうか?

私の高校時代の恩師は、竹刀は刀であり、試合は死合である。
自分が切らなければ切られて死ぬと思え!と厳しく指導していただきました。
そのせいもあってか、岩石男様と同じように剣道が実践でどれくらい役にたつものかといつも考えておりました。
実際、大学時代には木刀を構えて、武道の素人、空手、日本拳法、少林寺拳法の有段者に本気でかかってきてもらったこともあります。

正直、剣道強いですよ。残念ながら、木刀のため打撃に強い武道家には不利な部分もありますが、真剣でなくとも鋭利な刃物であれば、間違いなく致命傷を与えれるのはこちらであること、間合いの取り方、身体のさばき、剣の使い方、やはり剣道は武道であると本当に実感することができました。

もっと突き詰めれば、剣道が形になる前は、防具もつけず木刀で打ち合いながら稽古をしていたわけで、本当に剣術を体感するならこの方法もありかとも思います。

凛美優先生の
「剣道をすることを目的として明確に持っているのならば、私も剣を抜き相対峙し、剣を持ってお応えすることもあるかもしれません」

というお言葉に

「拙者、無用な殺生は好まぬが、そちがどうしてもとおっしゃるなら受けてたとう!」

という正に武士の姿を感じましたし、みな一剣士として誇りをもち、程度は違えども剣道に取り組まれていると思います。(勝手な解釈ですので、凛美優先生間違っていたらすいません。。。)

若輩者ですので、正しい剣道が何であるのかは、現在も模索中です。
ただ、剣道が武術でもあると感じている剣道大好き人間が一人はいますよと挙手させていただきました。

失礼いたしました。
Re: 剣道の未来 ( No.28 )
日時: 2010/01/18 23:14:13
名前: 岩石男

剣ヒロ様

 ご指摘、ありがとうございました。
>それは剣道に取り組む方々自身の問題であって、剣道が「そういうもの」
>ではないはずです。
 剣道に取り組んでおられる個々人の方々にとっては、まさにご自身の取り組みの問題と思いますし、ご指摘のとおりと思います。私が申し上げましたのは、個々人の取り組みに対して構造的なバイアスが働いているように見える、という事なんです。

>空手だったら道場破り呼ばわりでボコられますよね。
 ちなみに空手の場合、スポーツ少年団等ではなく、流派に属する町道場が基本です。
 このため空手の状況は、剣術時代〜剣道にも流派色が濃厚に残っていた時代における状況と類似しているように思います。しかし、礼を欠くようなことがなければ、「道場破り」としてボコられることはないと思います。
Re: 剣道の未来 ( No.29 )
日時: 2010/01/19 00:31:38
名前: 岩石男

To 莵剣士様

 ご指摘ありがとうございました。

 本スレにおける私の問いかけに対していただいたコメントが「剣道は護身や闘争に全く役に立たない」というものでした。
 しかし私は、剣道が武道である以上、護身や闘争に役に立つものでなければならず、少なくとも役に立つよう修練すべきものと認識しています。

 武道としての剣道を追求する上で感じた疑念を実証的に解決しようとする莵剣士様の姿勢は、至極まともなものであると思います。
 このような検討を通じてこそ、剣道の技術のうち、様々な相手に対して有効なもの、使えないもの、更には剣道の弱点(補うべき部分、剣術から学ぶべき部分)も見えてくるのではないかと思います。

>岩石男様は実際に武道の未経験者および、経験者と立ち会われたことは
>おありでしょうか?
 お恥ずかしい話、高校時代の趣味が喧嘩でしたので、剣道、柔道、空手、少林寺拳法、合気道をやっている人間と素手でバトルしたことはあります。素手ですから、剣道をやっている方は強くはありませんでした。
 しかし、実際に真剣、あるいは木刀を持った剣士と素手・素面で立ち会ったことはありません。
Re: 剣道の未来 ( No.30 )
日時: 2010/01/19 16:33:57
名前: だみ声< >

議論がおもしろく展開しておりますが、同じ剣道への取り組み方でも、個人差は結構あるものだというのが良く分かった今回の議論です。

一歩議論の幅を広げて、護身、戦闘に役立つ格闘技の最も優れているのは何か? という議論をしてみませんか?
お読みになった方達が、ご自分の思う種別に順位をつけて見るという趣向です。 いきなり言われても我々は剣道以外はド素人です。 どんな順位になるのでしょう?
そういう順位をつけた理由もあるとおもしろそうですね・・でも……

ちなみに僕が思う所は以下の通りです。
@ K−1 A空手 Bボクシング C拳法 D合気道 E柔道 Fレスリング G相撲
H剣道 I弓道 (それぞれのジャンルでそこそこベテランというレベルの方とします。)

K−1は、テレビで見る限りあらゆる格闘技の総合のようで、技の数なども一番多いのではないかと思います。僕の順位では剣道はかろうじて弓道よりは上かな?と言う所です。
しかも弓道は武道だけれど、格闘技ではないですね。槍道、長刀道は剣道より前に来そうです。
ところがそれぞれのジャンルでフル装備したらどうなるでしょう?
剣道は俄然上位に来そうです。 何しろ間合いが最も遠い訳で、間合いを保つ以上まず最強ではないでしょうか? 間合いに入ろうとする相手には、中心をとって正眼に構えてさえおれば相手は近づくだけで串刺しです。 竹刀を握られさえしなければ、やはり最強ではないでしょうか? しかし竹刀を握られ、奪われたら惨めな結果が待っています。

合気道も善戦するでしょうが、間合いが同等なだけにダブル、トリプルの攻撃にどれだけいなせるかがポイントかと思います。

・・でも…… ごめんなさい 本当にこんな事想定して稽古するのでしょうか?
試合ならルールが必用です。異なる格闘技にどのようなルールが通用するのでしょう?
それともルールなしで、トコトンやるのでしょうか? それって武道?格闘技?喧嘩?

そしてどの格闘技も、道場、コート、リンク、土俵以外ではそれぞれの技は「凶器」と定めて、ふさわしくない場所での使用は厳しく戒めています。 使った者は「除名」「破門」と言われております。

議論するのはおもしろいでしょうし、異種試合なども良いでしょうが、どっちが強いかと言うのは意味のない議論のように思うのですが、いかがでしょう?

こう考えてくると、僕の剣道は「人間形成」の道を求めるひとつの「手段」であり、もはや闘争と言う感覚はなくなってしまいます。 それで十分武道として成立する物だと感じております。

そして稽古は、自他共に認める完璧な有効打突を求めて、真剣に立ち会うことで、十分満足出来る物と感じております。 
(未だ完璧な有効打突を打てたと言う感覚はありませんが……)
Re: 剣道の未来 ( No.31 )
日時: 2010/01/21 23:39:38
名前: わちゃ〜

岩石男様はじめまして、こんにちは。
わちゃ〜と申します。
楽しくスレを読ませて頂いております。読んでいるうちに私も書きこみたいと思いました。徒然なるままですが何卒お許し下さい。岩石男様に対してと言うよりはこのスレに訪れる日々剣道をされている青少年の方に対して少しでも参考になる事や考えるヒントになれば幸いと思い書きこんでみました。

>闘争術としての迫力・必死の覚悟を失った武道は、礼儀が形式に留まり、技は廃れ、精神は観念論的に終始する事とならざるを得ません<
>剣道が武術として有効性を失い、過剰に「見栄え」を重視する「競技」と「昇段審査」に傾斜したことが、諸問題の原因ではないか<
 剣道は日本の長い歴史、風土の中で育まれ、民族精神を基調として築き上げられた我が国独時の身体運動文化であります。
いずれの民族にも刀剣を扱う闘争の技術は存在いたします。日本刀の発明を源として、闘争の技術として生まれた剣技はそれぞれの時代において新しい価値を見出しながら発展し、身体運動文化として体系化され現代に至っております。その剣道の歴史的な変遷を正しく理解、把握する事がこれからの剣道の内容の充実と健全な方向付けには不可欠な事と思われます。

>剣道が武道である以上、護身や闘争に役に立つものでなければならず、少なくとも役に立つよう修練すべきものと認識しています。<
 武道は敵を倒すテクニックではなく、肉体を通した自己実現の追求であると考えます。

>警察官の方々が職務において剣道の特練に励むこと自体、大変な税金の無駄遣いという事になるのではないか<
 日本の国防政策は、武道の精神、「空手に先手なし」の神髄を体現したものである。
国家としての「武道」すなわち国家安全保障の使命については、もう1つ、武道の心得が大切だ。
「屠龍の技(とりょうのぎ)」という考え方である。中国の故事から来ている。
昔、中国の山奥に龍が棲み、時折村に現れて悪をなす。ある青年がこの悪龍から村を守ろうとして、生涯をかけて「屠龍の技」、すなわち龍を屠(ほふ)る技を磨きその日に備えた。しかし龍は出てこなかった。という訓話である。
この話は取りようによっては2つの解釈がある。
一つは、「空しい巨大な無駄」
もう一つに
「百年兵ヲ養ウハ1日ノ為ナリ」
常在戦場、最悪に備える危機管理の要諦の一つ、という解釈があります。

武道の理念
武道は武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で柔道剣道弓道相撲空手道合気道少林寺拳法なぎなた銃剣道を修錬して心技体を一体として鍛え人格を磨き道徳心を高め礼節を尊重する態度を養う国家社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である 平成二十年十月十日制定 日本武道協議会

「武」という漢字はそもそも「戈(ほこ)」を「止(とど)」める、すなわち「戦さ」を抑止し戦を終わらせるものである。それは「平和を創る力」であり平和が回復された暁には「平和を維持する力」であるそれは「正義」に貫かれていなければならない。「弱者」に優しくなくてはならない。
Re: 剣道の未来 ( No.32 )
日時: 2011/12/23 21:58:48
名前: S。S

段制度のメリットよりデメリットのほうが大きいのは皆さんの承知のとおりです。
今の時代段制度が剣道の衰退を早めていきます。気づいている人はたくさんいるはずです。単なる集金制度であることは周知のとおりで、これから段を受ける人は寄付として考えたほうがいいと思います。
 

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